OB会の活動の一環として会員のリレー通信を行う事になりました。その第1回目として事務局より要請がありましたので末筆ながらペンを取りました。この企画はインターネットが普及してきた昨今において会員相互の親睦を深める上で重要なポイントとなると思います。過去を振り返り、現状を報告し(仕事、趣味、家族の事等)親睦の和を広げる絶好の場となると思います。第2回目以後、延々と続くことを期待します。
私は昨年行われました卓球部OB会40周年記念の時のスピーチで卓球部創立当初の思い出話をしたところ、大きな反響があり、(特に若い人)文章にして広く後輩へ聞かせて欲しいとの要望があり書く事にしました。
今では有名な、大きな立派な大学になった東海大学ですが、卓球部が生まれた頃はまだ発展途上の段階でした。私が入部したのは昭和36年(1961年)で3期生となりました。卓球同好会はその2年前にできて、私が入学した年に部に昇格したと記憶しています。
1期生、2期生の先輩方が苦労してつくられたと聞いています。特に2期生の那須先輩が中心になって部の形ができてきました。その頃の東海大学は発祥の地である清水から東京の代々木校舎に移転して間もない頃で食堂も部室もない状態でした。この頃、練習場もなく、新宿南口から程近い新宿卓球場で時間割引の早朝練習を行っていました。1年後くらい後に校舎が増築され、大学側と交渉して廊下兼ロビーみたいなところでできるようになりました。この時卓球台が無かったので皆んなから集めた部費で中古の卓球台を2台買ってきて練習が学内でやっとできるようになりました。合宿は安いスキー場の民宿で行うため、地元の小学校に卓球台がない時はこの買ってきた卓球台を自分達で荷造りして日本通運で送りました。練習ができるようになったと言っても下はコンクリート床でした。
4期生が入学した時は1年生は相模原校舎でした。(今の東海大相模高校)
教室の机を片付けて先輩が代々木校舎から出向いて指導していました。今度は5期生(昭和38年
1963年)が入学してくる訳ですが、この時、湘南校舎の第1期生となる訳です。この時も代々木校舎から出向いて指導していました。このような状況で合同練習は休日を利用して行っていました。湘南校舎の練習も、今のY字型の廊下にまたは教室で困難な時期でした。校舎が出来た最初の頃で周りには何もなく練習が終わって夜の帰り道は真っ暗で大根駅(現東海大前)まで懐中電灯が必需品でした。この頃電車も少なく、急行に乗るため大根から鶴巻温泉まで線路を歩いたりしました。(危ないことをしたものです)
この頃が部の運営は最も困難な時期でした。部の運営存続のためなら留年もやむを得ないという考えで必死でした。もし、そうなったら田舎の両親に申し訳ないと思っていました。なんとか級友に助けられました。級友(特にマネージャーの谷君)には感謝です。この当時は東海大のどこの部も必死で他の有名大学に追いつけ追い越せの気持ちでやっていました。ものすごく活気のある体育会でした。当時の新聞にも松前重義総長が語っておられるように大学の体制よりも学生諸君の体制づくりが先行するような勢いがあると語られています。このような時期に体育会活動または学生会活動に参加した人達は私も含めて、多少なりとも東海大学をつくったとういう感じがあるようです。卓球部の主将をやらせていただいてほんとうに良かったと思っています。後の社会人生活に大きなプラスとなりました。
さて一方の戦績の方をお話ししましょう。私の入部から1年遅れて昭和37年には第4期生として、神谷君と佐藤君が入部してきて、大きな戦力となりました。関東学生リーグに6部からスタートして2年で3部昇格という快挙を成し遂げました。この時の破竹の勢いは関東学生卓球連盟の中でも評判でした。当時東海大学体育会では空手、柔道が少し活躍し始めていた頃で野球もあまり強くない時期でしたから卓球部の躍進は昭和38年の体育会新聞でもわかるように目立ちました。

昭和37年秋の体育祭で関東学生リーグ戦4部優勝カップを持ってのパレード。優勝カップを持つのが那須先輩。賞状を持つのが神谷先輩。その1人置いて左側が佐藤先輩。真ん中白シャツ眼鏡なしが米森会長(筆者)
この時、主将の私とマネージャーの谷君が代々木校舎の地下にあった東海大学応援団の本部に呼び出され、「連絡があれば応援に行ったのに」と怒られました。また4部の優勝カップを持って代々木校舎1号館にあった学長室に松前重義学長(当時学長だった)を訪ねて、優勝を報告しました。この時学長は優勝できて良かったねと心から喜んでいただきました.
この時の話で学長は「東海大学のスポーツの記事が最近新聞の下の方に小さくボツボツと出始めているのが嬉しい」と話しておられました。
また卓球部としては早く体育館での練習場が欲しいと要望したところ「もう少し待ってくれ、君達が卒業するまでには間に合わないかもしれないが東京体育館みたいな大きな立派な体育館をつくるから」と言っておられました。そして出来上がったのが現在の体育館でした。今から思えば後の松前総長に直接話ができたのも光栄であったし、卓球場確保への第1歩だったと言えるかもしれません。
−後編へつづく− |