第12回 19期生 宮崎 孝男
 『光陰矢の如し』 気がついてみればもうすぐ46歳。東海大学を卒業してすでに24年の月日が流れようとしています。あんなに鮮明に覚えていた学生時代の記憶も、今はもうセピア色に変色し、遙か遠い昔の思い出になってしまいました。
  今回、この掲載の話を宮城さんからいただいたとき、正直「困ったなあ」と思いましたが、「何とかなるか」と安請け合いしたことを、今となってはとても後悔しています。  さて、前置きはこのくらいにしてそろそろ本題に入るとしましょう。

 第19回卒業の宮崎です。私は千葉県の成東高校出身です。高校時代の私はとてもいい加減な人間で、よく練習をさぼったり、監督に反抗したりと卓球部のキャプテンとは名ばかりのどうしようもないやつでした。同級生が私を含めて4人おり、私以外の3人の努力でインターハイに出場しました。それまでは、「大学いったら卓球なんかやんな〜い」が私の口癖でしたが、この時からは、「大学いったら卓球しようかな」に変わってしまいました。それというのも、インターハイが終わり気がついてみればもう9月、「今から受験勉強しても絶対
無〜理」と腹をくくってしまったからです。そうとなれば、推薦入学に一縷の望み託すしかないと思い自分なりに調べた結果、数少ない候補にあがったのが『東海大学』だったのです。入学にあたっては当時卓球部長であった亡き安田武四郎先生のご尽力があったことはいうまでもありません。

 入学後は、個性の強い先輩方に「かわいがられ」、合宿のたびに何かしら「事件」がおきていたような気がします。そのおかげで、最初十数人いた一年生部員も気がついてみれば6人。私の同期には鹿沼、岡田(相模工大付出身)、窪田(須玉商業出身)、古城(東海大五出身)、鈴木(坂戸高出身)がおり、鹿沼と岡田は要領が良く、1年生の仕事はあまりやらず、いつも下働きをしていたのは他の4人だったような気がします。この時から、「自分のいい加減人生にピリオドを打たなくてはいけない」と思うようになりました。他人の振り見て自らを省みたのでしょうか?(あ、これはちょっと言い過ぎかな)

  女子卓球部も私たちの入学と同時にスタートしました。たまたま、高校時代の同級生(女子)が私のアパートのすぐ近くに住むことになり、訪ねてみると同じアパートには中石(池田高校出身)が四国の山奥から出てきていました。「卓球部で女子部員を募集しているから入部しない?」と勧誘すると「少し考えてみる」という返事が返ってきました。当時、主将の小清水先輩がこの女子部設立には非常に積極的で、「1年生男子部員は最低二人は女子部員を連れてこい」というのが口癖になっており、このノルマを果たすのに我々1年生は四苦八苦したものでした。努力の甲斐あり女子部員第1期生、中石、河野(白百合女子学園出身)、末富(板橋高校出身)、津末(九州女学院出身)、池田(晃華学園出身)の5名が入部することになりました。

  このころのエピソードといえばなんといっても富士吉田市で行われた夏合宿です。とにかく1年生だったので、練習での苦しさよりそれ以外での苦しさの方が何倍もきつかったように思います。合宿の3日目くらいのことです。2年生から恒例の「集合」がかかりました。私たちは嫌な予感を感じながら大広間に集合しました。案の定、「態度が悪いから正座」という声がかかり、先輩のご指導を受けながら正座の苦痛に耐えて約10分。いきなり後ろから布団や毛布がかぶせられ身動きできない状態にさせられました。何がなんだかわからないうちに下半身全部はぎ取られ、赤チンやサロメチールが陰部に塗りたぐられました。そのころになってようやくこの現状がどういうことなのか理解できてきました。どうやら、私だけが標的になったようで、他の1年生は何もできずに呆然と見守っていたそうです。しばらくして私は抵抗するのを止め、身体全身の力を抜き死んだふりをすることにしました。すると、当時3年生だった西山先輩(17期)が「宮崎の様子がおかしいぞ」と叫ぶではありませんか。「よし、引っかかったぞ」と思いながら「もう少し懲らしめてやろう」と腹をくくり、しばらくじっと動かず息を殺していました。まもなく、4年生の清水先輩(16期)が「救急車を呼べ」と叫びました。と同時に「ああ、苦しかった」という声で私が起きあがり周りを見回すと、そこには先輩方の「安堵の顔」と「怒りの顔」の両方が錯綜しているような光景が目に入りまし
た。その後の「おとがめ」はなく、小清水先輩(16期)からは「宮崎、役者やのう」とお褒めのことばをいただきました。ちょうど合宿の最終日が「吉田の火祭り」と重なり、燃えたぎる炎の中、つかの間の自由を満喫しました。

  1年生、2年生と苦しい時期を乗り越え、3年生の春にやっとリーグ戦に出場することができました。2年生の時にもチャンスはあったのですが、普段の行いが悪かったせいかリーグ戦の前になると必ず骨折をしてしまいました。一度目は左足首をサッカーの授業で、二度目は右手第三中指骨を練習中に、三度目は治った右手の近くを練習後に同期生(岡田)と些細なことからけんかで、という具合に、一年間で3度も骨折するというなんとも不甲斐ないシーズンを送ってしまいました。そのため、元来スピードのなかったドライブやスマッシュが更に遅くなってしまい、安定性を重視した卓球を追求するしか生きる道がなくなってしまいました。

  3年の秋のリーグ戦で慶応大学と対戦したとき、6番で相手の準エース格の青山さんとあたりました。優勝が懸かった大事な試合で当日はたくさんのOBが応援に来られており、その中には叶さんや卒業したばかりの岸先輩(17期)の顔もありました。3対2とリードして、いよいよ私の試合です。ところが、私の試合が始まるとまもなく、岸先輩をはじめ数人のOBの姿が見えなくなってしまいました。後で聞いた話ですが、「どうせ宮崎だから勝てるわけはないだろう。ラストの岡田に期待だ」ということで、外にタバコを吸いに行ってしまったとのこと。ところが皆さんの期待に反し、その試合に勝ってしまった私は、うれしくてうれしくて、飛び上がって喜んだほどでした。学生時代に一番印象に残っている試合がこの試合です。この時は慶応大学には勝ったものの、次の青山学院戦で痛い一敗を喫し、3部優勝はまたもお預けでした。この年は小菅先輩(18期)がリーグ戦10戦全勝をした年ではなかったかと記憶しております。

  秋のリーグ戦が終わるといよいよ幹部交代です。私たちの代では鹿沼が主将となり私が副主将ということで最後の年をむかえることになりました。鹿沼は入学当初、仕事はやらず先輩とはため口、そのおかげで罪のない我々がどんなに連帯責任を負わされたことか・・・。同期の窪田や古城とはいつも愚痴を言い合っており、不平、不満を数え上げればきりがないくらいでした。その彼も、このころになると徐々に上級生としての風格が出て来ており、主将として頼もしい男に成長していました。大学の4年間で彼ほど成長した男はいなかったでしょう。4年になってからのリーグ戦では8勝2敗と大活躍し、主将としての責任を果たしました。

  4年生になってからは、教育実習やら採用試験の勉強やらで練習時間は減りました。しかし、有望な新人も入学し、「いよいよ2部近し」と活気も出て来た時期だったと思います。結局、春秋リーグ戦とも4勝1敗でまたも優勝できず苦杯をなめた1年でした。「練習量の減った自分がリーグ戦に出ててもいいのかな」という不安を感じたのもこの年です。結局、通算7勝2敗で終わり成績的には今一歩でしたが、下積みの苦労やレギュラーとしての自覚、それ以外にも数多くのことを学ばせていただいた4年間だったような気がします。

 現在、千葉県の中学校で教員をさせていただいておりますが、未だに卓球から縁が切れません。卓球部の顧問として、卓球を通して人間教育ができればと日夜指導に励んでおります。今年は幸運に恵まれ、自分の学校も県大会で優勝し関東大会に出場し、二人の娘と共に同じ土俵で試合をすることがきました。親子3人で関東大会に出場できるなんて、滅多にないことも経験もさせていただきました。残念ながら自分の学校は全国大会には出場できませんでしたが、娘たちのチームがそれぞれこの無念を晴らしてくれました。

 振り返ってみると、ここまで深く卓球にかかわっているのも、その根底には『東海大学卓球部』の4年間があったからだと確信しています。今後とも体力の続く限り卓球に親しんでいきたいと思いますので宜しくお願いいたします。

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