第3回 「私と卓球」(前編)  2期生 那須 出

 このたび米森会長、事務局宮城氏からの熱意に応えて「私と卓球」について話をさせていただきますが、このような形で文章を纏める事に馴れていないので意の尽くせない点もあろうかと思いますが、記憶を辿りながら進めさせて戴きます。
 初めてラケットを握ったのは小学校5年生位と記憶している。当時、広島市に住んでいた。父が休日に会社に行くことがあり、ある時同行した。仕事はすぐ終わり、卓球でもと誘われるまま屋外に台を広げて乱打した。その時若干の興味が湧いたのを覚えている。
 その後中学生となるがその学校には卓球部はなく、部活無しの生活を送っていた。中学1年の11月父親の転勤のため東京の中学校に転校し、卓球部に入部した。その当時練習場は、床はコンクリート、スペースも狭く十分な練習が出来ないので、卓球場(当時1時間15円)に通い練習した。
 卓球場で空いているときは基礎練習が出来るのだが、混んでくると試合が始まる。勝ち抜き戦のため負けると順番が来るまで待たなければならず、負けると1時間で1セットしか出来ないときもあった。試合相手は子供から大人までとにかく勝たなければならず、一生懸命相手の弱点を突きながら勝つことに集中した。おかげでフォームは悪いが、試合には結構強かった。

 高校時代の卓球
高校入学と同時に卓球部に入り365日練習に明け暮れた。高校は進学校で卓球のレベルは平均的なものだった。練習内容は5qランニング、兎跳び、素振り、フットワーク、ロング、ショート、カット打ち、サーブ、レシーブ、3本決め、オールランド、練習試合等であった。最初はフォーム矯正のため素振りを毎日1,000回位続けたが相当の月日を要した。中学の時の他流試合のお陰ですぐレギラーとして対校試合、大会に出場する事となった。
 大会は、東京の場合1日では終わらない。1日目は2回戦位まで消化し、後日3回戦となる。2回戦に勝つと3回戦に進む、校内で一人勝ち進んだときは一人で会場に行き戦わなければならず気力を維持するのが大変であった。高校時代のベストは32であった。
昭和33年頃と記憶しているが、第三回アジア大会が東京で開催された。当時日本の卓球は世界のトップクラスで多くの世界チャンピオンがいた。荻村、田中、富田、江口等の試合を身近に観戦し感動したものである。
この時期の卓球は3本決めを基本とし殆どロング戦が主体(ラバーはスポンジ、表、表ソフト、裏ソフト、スポンジの厚さは1o〜12o位))であった。
高校時代のある日、練習を終え友達と中野十貫坂を登りつめたとき、左側に化粧品屋があった、なにげなく店の中を覗くとなんとそこに混合ダブルス世界チャンピオンの富田選手(富田、江口組で優勝、のち結婚)がいた。すぐ店内に入り今度の合宿でのコーチをお願いしたところ快く引き受けて戴き実現した。富田選手は全日本のユニホーム等を身につけ指導して頂いた、緊張した。富田選手は表の一枚ラバーを使用していたが、1球、1球が生きていた、鉄の球を打っているような感触であった。1球1球に意思と、体重が乗ったいい球でした。私は練習の態度として、返球するときどんなコースの球でも必ず相手の打ち易いコースに返す、自分のボールとして(意思を持ったボール)返球する、決して諦めない(取れないボールでも執拗に追っかける)、を心がけた。
 試合ではメンタルな要素が大きい、特に実力伯仲している場合メンタル面の強さが要求される。これを克服するために自分なりに考えたことは、練習をつみ実力を付けること、邪心を捨てること(これが難しい)。
 試合の前の乱打で相手の球質、性格を判断し、ある程度の戦略をたて、相手の目を覗き精神状態を把握しながら、確立70%以上なら決めに行くことが多かった。

            富田選手

−後編につづく−


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