第5回 4期生 佐藤恒明

 OB会会員のリレー通信をやることになって、「順番だから何か書くように」と事務局の宮城さんから電話が入った。何のことかよく分からずに詳しく聞いてみると、初回の米森先輩から始まって2回目、那須先輩からの申し送りであるという。恐れ多くも3番目の書き手に指名されたのである。
 筆不精で文章なんぞ無縁の私ごときが・・・と丁重にお断りしたら、「折角の企画がたった3回目で終わっていまい、事務局(宮城さん)が那須先輩や米森先輩から叱られる」と脅迫する。那須先輩、米森先輩といえば、東海大学卓球部にとっては生みの親であり大恩人であり、私にとっては、いまだにとても怖い存在なのである。(他にも怖い先輩は大勢いたが・・・)。
 なかなか痛いところを突いてくるものだ。子供のようにしばらくゴネてみたが、さすがに事務局を任されているだけあってそのへんのやり取りは私の太刀打ちできる相手ではなく、簡単に説得されてしまいそうになる。宮城さんが4期生であったら自分の代わりにキャプテンを任せて、自分はもっと卓球に打ち込めたのに・・・と残念に感じたものだ。
 とにかく、何を書いたら良いのか全くわからないので、「先輩の書いたものを見せてもらってから考える」と逃げたが、敵もさるもの、すかさず先輩二人の原稿を送ってきた。
 お二人の原稿を読んでびっくりした。私が4期生として入部する前の、私の知らないご苦労話がたくさん綴られており、何も知らずに完備されていない卓球の設備に愚痴をこぼしたり、ノーテンキにただ卓球ばかりやっていた自分にあきれ、必死にそういう環境を整えてくれた先輩に今更ながら感謝する次第である。
 しかし、お二人ともはるか昔のことをよく覚えているものである。また、写真などもよく残しておかれたものだ。それだけご苦労され、創世記の東海卓球部に思い入れが強いのだと思う。

 私の場合、皆さんには申しわけないが、ご披露できるような記憶も写真も残っていない。先輩が書かれたものを読んでいるうちに、いろいろな当時のできごとが断片的によみがえってくる。
 そういえば、1年の時、卓球のラケットケースを抱えて新潟の田舎者にはあこがれの新宿改札口を同じ4期生の佐野君(後に同室で下宿した仲間)と通った記憶がある。あれは卓球場に行くためだったのだ。その新宿の卓球場で神谷君という怪物と出会った。慎重180cm80kg、手足が長くまるで格闘家のようなでかい奴で、私の知っている卓球人のイメージには無いタイプであった。
 神谷君の強烈にスピンがかかったひねくれサーブは誰も取れない。サーブで5本取られては適う筈がなく、手も足もでず、苦もなくひねられたのを鮮明に覚えている。

 覚えているといえば、冬休みに行った榛名湖のスケート合宿を思い出す。湖畔にある大学の施設に寝泊まりができ、食料持参で交替で食事当番をし、一週間すきなだけスケート三昧をしようというものであったと記憶している。
 スケートなど全くできない自分であったが、面白そうなので、なけなしの生活費を切り詰めて中古のスケート靴を買い込み、勇んで先輩にくっついて行った。
 食事メニューのメインはポークソテー、自分も含めて全員が楽しみにしていたものだった。たまたま私がポークソテーの調理係りに当たり(ポークソテーどころか料理なんかしたことがなかったが・・・)試合より緊張しながら調理したものだ。「塩、胡椒をたっぷりきかせてくれよ!」と先輩の声が聞こえたので、塩、胡椒を思い切り付けて焼いて、自信満々で食卓に出した。美味いはずのポークソテーが塩辛く苦くて食えない。皆何とか食べようと、お湯で洗ってみたり悪戦苦闘したが、結局はみんな捨ててしまった。全員から大目玉をくらったのは言うまでもない。弁解はしたくないが、調理の経験がないと言っている私に「塩、胡椒をたっぷりきかせろ」と言った先輩の責任だと今でも思っている。
 スケート客の多い昼間は寝ているかマージャンをしていて、自分たちのスケートは夕方から夜にかけて滑った。しかし、ほとんどスケートはしないで先輩の囲むマージャンを見学していたような気がする。お蔭で本で独学したマージャンもなんとか並べられる程度になったし、スケートもノロノロ滑れるようになった。

 大学では酒も教えてもらったし、ボーリングも初めてやった。ビリヤードというものも知ったし、囲碁も将棋もやった。社会にでて困らない程度の遊びは全て大学で習った(自発的に・・・である)。できれば、ゴルフも那須先輩に習っておけば、今こんなにゴルフで苦労しないですんだと思う。ゴルフは金がかかる遊びと思っていたので一生やらないつもりでいたが、30才過ぎて上司から無理やりボロボロの5番アイアンとパターを預けられて練習場へ行かされてから病みつきになった。卓球は30年以上全くやっていないが、ゴルフは今でも続けている。
 ゴルフといえば、始めたばかりの頃、神谷君が上手いというので一度無理やり教えてもらった事がある。スコアなんかは忘れたが、とにかく神谷君のドライバーの飛距離が凄く、キャディーが280ヤードとか300ヤード飛んでいると言って興奮していたのを覚えている。その時はそれがどのくらい凄いことなのかよく理解していなかった。今思うと、やはり彼は怪物だったのだ。

 大学では、遊びも卓球も一所懸命頑張ったつもりだが、那須先輩や米森先輩が苦労して3部まで引き上げた卓球部を引き継いで、2部、1部に行ける土台作りが出来なかったのが心残りである。当時のメンバーでは正直のところ3部がいいところであったと思う。しかし、せっかく優秀で素質のある新人が入部してきても、どうすれば彼等をもっと伸ばせるのか、その鍛え方やトレーニング方法を知らなかった。
 3部に上がったその時期に1部の練習を見に行ったり、一流選手に指導を受けたり、更に上を目指す理論的なトレーニング方法を確立させておけは、5年後には東海卓球部も1部の常連であったと思っている。
 個人が思い思いに試行錯誤しながら、ただ球を追いかけるだけでは、おのずから限界がある。楽しいだけの卓球では3部以上にはなれない。
 2部、1部と更に超一流に強くなるためには、長所を伸ばし短所を補うための科学的で効果的な「苦しいトレーニング」が必要である・・・というのが私の持論である。だから私は何でも楽しいところでとどめておく事にしている。


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